[事例]チンパンジーの家族への参与 〜松沢氏のアプローチにみるフィールドワークの姿勢〜
松沢哲郎氏は京都大学の霊長類学者で、チンパンジーの研究で知られている。松沢氏の研究は、まるでチンパンジーの家族/社会をフィールドワークするような手法で特徴づけられる。
松沢氏は、英文校正会社の研究者インタビューにおいて、「日本人としてのメンタリティや価値観が、私の研究をユニークでオリジナルなものにしている」と感じると述べる。
どういうことであろうか。
このように、松野氏は、キリスト教的価値観から生まれる「人間と動物」という二分法に縛られない、日本独特の死生観/生命観が、チンパンジーに対して、より近い調査を可能にしたのだと考えている。
たとえば、私は日本にいる限り毎日アイやアユムと過ごし、一緒に暮らす中から発見をつむぎ出していきますが、欧米の研究者から見ると、異様なほどチンパンジーとの距離の近い、チンパンジーに溶け込んでいくような研究者だと思われているでしょう。欧米のキリスト教的価値観で言うと、チンパンジーは黒くて大きなサル以外の何物でもないんですよ。どうにもならないほどはっきりと、「人間と動物」という二分法がある。一方で、輪廻転生も受け入れられる日本人的な生命観では、自分は犬にもなるだろうし虫にもなるだろう、でもその虫が来世で人間になることもあるだろう、だから人間と動物を峻別する必要はなくて、実際に人間だって動物だし、生きとし生けるものの命がつながっているということを、比較的自然に受け入れられますよね。
(インタビューより)*下線はブログ執筆者による
人類学におけるフィールドワークにおいては、もちろん対象社会に身を置く事は当たり前のように行われている。しかしながら、「私」と「彼/彼女ら」を分けることは、無意識に起きており、例えばマリノフスキーの日記*1にはその赤裸々な心情と苦悩が記されている。
続けて、松沢氏は以下のように述べる。
欧米のアプローチだと、チンパンジーの赤ちゃんを母親から引き離して、人間の家庭で育てて、同じ環境で育ったチンパンジーと人間を観察する、といった研究になっちゃう。でもそれでは、人間にはお父さんとお母さんがいるのに、当然チンパンジーの赤ちゃんにはいない。異種の生き物の中に放り出されて心細い思いをしながら必死に生きていくチンパンジーのさまを見ることになるのであって、本来の親に育てられた子供の、自然に育っていくようすを見ることにはならない。私たちのプロジェクトのように、研究者自身がチンパンジーの日常生活に参加して、そこから見えてくる親子関係を観察するというのは、欧米の発想からはなかなか出てこないですね。このように、人類学におけるフィールドワークの基本姿勢を松沢氏のチンパンジー研究に見いだす事が出来る。「参与」し、「内側から観察する」という方法は、「人間」にとっての他者理解全般において有用なのかもしれない。
例えば、生態学者であり、文化人類学者である今西錦司氏も、カゲロウの生態研究において人間の家族のようにカゲロウに名前を付け、観察をしていた。こういったエピソードには、共通の価値観を感じ、実際、研究のブレイクスルーが起きるきっかけとなっている。
*Photo: taken by Takashi(aes256)
*1: A Diary in the Strict Sense of the Term, New York: Harcourt, Brace & World,Inc.1967
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